[場所1E202-203(金曜日6限)]
HPに行く
スライド
今年度から1年生の担任をすることになりました。
というわけで、フレッシュマンセミナーというのをやらないと
いけないのですが、内容は担任に一任されているようです。
他の学類は施設見学などもあるようですが、数学でそのようなものも
ないし、とりあえず、今回は、私はスライドを自由に作りました。
上のHPのリンク先にあります。
大学では何を考えるところか?
大学にはいったものの何を考えればよいのでしょうか?
何も考えず、とりあえず大学にはいればよいと思っている人がほとんどかもしれません。
特に目的もなく、大学自体入ってから楽しめばよいというのも正しいと思います。
何かをやって、これが自分なりに正解だと思えるものであればそれで正解なのです。
むしろ、何をしたらよいか、自分で問い、答えに向かって進むことができれば
それでよいのです。
大事なことは、自発的にこれらのことを行うということです。
自分自身見つめてみて、今何をしたいのか?また何をするとよいのか?
どのような計画で行えばよいのか?
などどれをとってみても自分一人で考えることばかりです。
しかし、自分だけで考えると、大抵つまずき、わからなくなるものです。
まだ若いし、見識もないので、判断に迷いがあるということも多いにあります。
そのときは、近くにいる友達や先生、親、先輩などに
聞くと有効な考えに至ることがあります。特に、先輩などは、
身近で、少しだけ成長した自分自身だと思えるので、受け入れやすいでしょう。
しかし判断するのは自分自身の心であることは忘れないで下さい。
私が大学時代にやっていたことは、何かわからないことが
あると、本(文庫本、小説など、その他なんでもいい)などを
読んでスッキリさせていました。
自分で考えられない場合、何か、他の人が考えている文章を
読むことで、なぜか、全く関係がない文章なのに、解決したりすることが
ありました。
迷っている時こそ、一人で落ち込まずに視野を広げてみることが大切です。
いつも食べているコンビニ弁当を変えて、食堂のパスタにしてみるとか
したときに、何気ないきっかけで何か目覚めるかもしれません。
また、自発的に自分自身のことを行うことが苦手な人は、
まずは、人のために何かをしてみてはどうでしょうか?
例えば、ボランティアをしてみるとか(この行為自身かなり自発的な活動ですが...)、
席を譲ってみるとか、ゴミを拾ってみるとか、実家の夕食を一人で作ってみるとか
日常的なことでかまいません。
自分が何をすればよいのか分かるかもしれません。
これらも、自分で真剣に何をしたらよいのか考えなければやはり
答えは得られません。
私は、大学に入る前は、大学に入ったら数学をもっとやりたいなぁと
思っていましたので、入ってから積極的にいろいろ本を読んだり、
友達と勉強や自主ゼミをしたり話したりしていました。
数学の理解は他の友達と比べてそれほど早いものではありませんでしたけれど。
(実はいまもそうです...)
大学での友達は....
大学で出会った友達は、一生の友達になることがほとんどです。
人生最後の学園生活といってもよいでしょう。そこで
人生として多くのことを学び、多くのことを助け合った仲間です。
今後大切にしていくことがよいでしょう。
数学でつまづく時と、数学ではばたく時
岡潔という人は数学をする上で情緒を大切にしたようです。
数学者がすべてそのような情緒を持っていて、そうでないと
数学者になれないということはありません。
それは、数学という学問の懐の深さかもしれません。
数学の内容が腑に落ちるということは、
一種の情緒的体験とも言えなくもないですが、
それは強制できるものでもありません。
ごく一般的な内容をここに書いておきます。
つまり、数学の理解をするだけなら、特に難しいことは
ないということです。
数学の授業を受けたあと、理解しているかどうかは、
まずは、その内容の定義が言えるかどうかです。
定義は普通よく考えて作られていますので、それ言えれば
とりあえず合格です。
例えば、基底とその性質について習ったとき、家に帰ってから、
もう一度基底の定義を復習してみます。
このとき、すらすらと書けるようであれば、
基底について理解したということであり、
一方、なんとなくこんなものというだけの理解であれば、
まだ基底について理解していないということです。
ここで、覚えていて書けるということと理解して、基底の定義
はこうでなくてはいけないと確信しながら書くことはだいぶん違います。
もちろん後者の理解が必要です。
なんとなくの理解のままほっておいても、次の段階には(正常には)進めません。
例えば、線形写像の行列表現などはいったい何をやっているのかさっぱり
わからないと思います。
同じように、出てきた定理やその証明についても同じようにします。
このように、自分自身見つめることができる能力がここで発揮されるのです。
しかし、自分がわからなくなったと気付いたとき、つまずいたところ
がどこかわかれば、その部分の定義や定理(証明をこみで)などに戻って
自分一人でそれらを書けるようにすることでまた理解が進みます。
このように、定義や定理が自分一人で完全に書けるようになるまで続けます。
数学は有機的には繋がっていますが、なぜか、さきの勉強をすれば
前の部分がわかってくるということは(ほぼ)ありません。
内容の不理解ということになると、
「前の部分がわからないから先がわからない」
というもっとも典型的なパターンがほどんどです。
そうしていけば、線形代数や微積などわからないところが
ないくらいクリアにわかるようになるでしょう。
また、1年生のうちにわかっていなくても、ある程度進んでから、もういちど
見直した時に、さらに理解が進むこともあります。
(そのきっかけとしてはやはり先に進めなくなったときに、1年生の
内容に立ち戻るという行為があるからこそです。)
これらのことは、スポーツや芸術などでいう、基礎練習の部分です。
体得するまで繰り返しやるという点では、大抵のアスリートや
アーティストが実施しているところと同じです。
しかし、基礎練習をしているだけではそのスポーツや芸術には入りません。
基礎練習ではない数学を(研究)するということは、数学の定義、定理がわかり、
問題を解けるだけではなく、
どうしてその方法で問題が解けたのか?
どの部分の議論が本質的だったのか?
ではもっと一般化する方法はないのか?
この方法を他の状況に応用することはできないのか?
といったことまで考えることです。
機械的な数学の勉強に飽きたら、このような自由な発想も
たまに考えてみるとよいかもしれません。
学部時代であっても、数学の授業の中でそうした状況がでてくると思います。
そのような場面に出会えば、自由思考を実践してみてください。
少し数学の研究のような体験ができるはずです。
もし、大学院などにいって数学を研究することになれば、
そのような体験が貴重であったことに気づくことになります。
もし、そのようなとき、迷ったら、大学の教員などに相談してみると
よいかもしれません。
HPに行く
スライド
今年度から1年生の担任をすることになりました。
というわけで、フレッシュマンセミナーというのをやらないと
いけないのですが、内容は担任に一任されているようです。
他の学類は施設見学などもあるようですが、数学でそのようなものも
ないし、とりあえず、今回は、私はスライドを自由に作りました。
上のHPのリンク先にあります。
大学では何を考えるところか?
大学にはいったものの何を考えればよいのでしょうか?
何も考えず、とりあえず大学にはいればよいと思っている人がほとんどかもしれません。
特に目的もなく、大学自体入ってから楽しめばよいというのも正しいと思います。
何かをやって、これが自分なりに正解だと思えるものであればそれで正解なのです。
むしろ、何をしたらよいか、自分で問い、答えに向かって進むことができれば
それでよいのです。
大事なことは、自発的にこれらのことを行うということです。
自分自身見つめてみて、今何をしたいのか?また何をするとよいのか?
どのような計画で行えばよいのか?
などどれをとってみても自分一人で考えることばかりです。
しかし、自分だけで考えると、大抵つまずき、わからなくなるものです。
まだ若いし、見識もないので、判断に迷いがあるということも多いにあります。
そのときは、近くにいる友達や先生、親、先輩などに
聞くと有効な考えに至ることがあります。特に、先輩などは、
身近で、少しだけ成長した自分自身だと思えるので、受け入れやすいでしょう。
しかし判断するのは自分自身の心であることは忘れないで下さい。
私が大学時代にやっていたことは、何かわからないことが
あると、本(文庫本、小説など、その他なんでもいい)などを
読んでスッキリさせていました。
自分で考えられない場合、何か、他の人が考えている文章を
読むことで、なぜか、全く関係がない文章なのに、解決したりすることが
ありました。
迷っている時こそ、一人で落ち込まずに視野を広げてみることが大切です。
いつも食べているコンビニ弁当を変えて、食堂のパスタにしてみるとか
したときに、何気ないきっかけで何か目覚めるかもしれません。
まずは、人のために何かをしてみてはどうでしょうか?
例えば、ボランティアをしてみるとか(この行為自身かなり自発的な活動ですが...)、
席を譲ってみるとか、ゴミを拾ってみるとか、実家の夕食を一人で作ってみるとか
日常的なことでかまいません。
自分が何をすればよいのか分かるかもしれません。
これらも、自分で真剣に何をしたらよいのか考えなければやはり
答えは得られません。
私は、大学に入る前は、大学に入ったら数学をもっとやりたいなぁと
思っていましたので、入ってから積極的にいろいろ本を読んだり、
友達と勉強や自主ゼミをしたり話したりしていました。
数学の理解は他の友達と比べてそれほど早いものではありませんでしたけれど。
(実はいまもそうです...)
大学での友達は....
大学で出会った友達は、一生の友達になることがほとんどです。
人生最後の学園生活といってもよいでしょう。そこで
人生として多くのことを学び、多くのことを助け合った仲間です。
今後大切にしていくことがよいでしょう。
数学でつまづく時と、数学ではばたく時
岡潔という人は数学をする上で情緒を大切にしたようです。
数学者がすべてそのような情緒を持っていて、そうでないと
数学者になれないということはありません。
それは、数学という学問の懐の深さかもしれません。
数学の内容が腑に落ちるということは、
一種の情緒的体験とも言えなくもないですが、
それは強制できるものでもありません。
ごく一般的な内容をここに書いておきます。
つまり、数学の理解をするだけなら、特に難しいことは
ないということです。
数学の授業を受けたあと、理解しているかどうかは、
まずは、その内容の定義が言えるかどうかです。
定義は普通よく考えて作られていますので、それ言えれば
とりあえず合格です。
例えば、基底とその性質について習ったとき、家に帰ってから、
もう一度基底の定義を復習してみます。
このとき、すらすらと書けるようであれば、
基底について理解したということであり、
一方、なんとなくこんなものというだけの理解であれば、
まだ基底について理解していないということです。
ここで、覚えていて書けるということと理解して、基底の定義
はこうでなくてはいけないと確信しながら書くことはだいぶん違います。
もちろん後者の理解が必要です。
なんとなくの理解のままほっておいても、次の段階には(正常には)進めません。
例えば、線形写像の行列表現などはいったい何をやっているのかさっぱり
わからないと思います。
同じように、出てきた定理やその証明についても同じようにします。
このように、自分自身見つめることができる能力がここで発揮されるのです。
しかし、自分がわからなくなったと気付いたとき、つまずいたところ
がどこかわかれば、その部分の定義や定理(証明をこみで)などに戻って
自分一人でそれらを書けるようにすることでまた理解が進みます。
このように、定義や定理が自分一人で完全に書けるようになるまで続けます。
数学は有機的には繋がっていますが、なぜか、さきの勉強をすれば
前の部分がわかってくるということは(ほぼ)ありません。
内容の不理解ということになると、
「前の部分がわからないから先がわからない」
というもっとも典型的なパターンがほどんどです。
そうしていけば、線形代数や微積などわからないところが
ないくらいクリアにわかるようになるでしょう。
また、1年生のうちにわかっていなくても、ある程度進んでから、もういちど
見直した時に、さらに理解が進むこともあります。
(そのきっかけとしてはやはり先に進めなくなったときに、1年生の
内容に立ち戻るという行為があるからこそです。)
これらのことは、スポーツや芸術などでいう、基礎練習の部分です。
体得するまで繰り返しやるという点では、大抵のアスリートや
アーティストが実施しているところと同じです。
しかし、基礎練習をしているだけではそのスポーツや芸術には入りません。
基礎練習ではない数学を(研究)するということは、数学の定義、定理がわかり、
問題を解けるだけではなく、
どうしてその方法で問題が解けたのか?
どの部分の議論が本質的だったのか?
ではもっと一般化する方法はないのか?
この方法を他の状況に応用することはできないのか?
といったことまで考えることです。
機械的な数学の勉強に飽きたら、このような自由な発想も
たまに考えてみるとよいかもしれません。
学部時代であっても、数学の授業の中でそうした状況がでてくると思います。
そのような場面に出会えば、自由思考を実践してみてください。
少し数学の研究のような体験ができるはずです。
もし、大学院などにいって数学を研究することになれば、
そのような体験が貴重であったことに気づくことになります。
もし、そのようなとき、迷ったら、大学の教員などに相談してみると
よいかもしれません。
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